昭和45年9月18日
月次祭における教話
さきほど、お祭り前に北野の上野さんがおかげ話しを発表しておられました。 本当に上野さん一家の事をお互いが聞かせて頂いただけでも、金光様の御信心が、あぁ、どんなものか、またはどのようなおかげが受けられるもんかという事がわかるほどしのおかげを受けておられます。 そこで、まぁ合楽の御信者さん全部を、まぁ見回してみますとです、そんなら上野さんがお話になったようなおかげなら、みん~な頂いておるということ。
ね、私は最近思わせて頂く事は、今日ただいま、そこ立たせて頂く時に頂きます事が、今日はどういうようなお話をさせて頂こうかと、もうさっぱり検討がつかなかった。 したら神様が、異常という事を字で下さった。 異常とは、異なった様と書いてある。あの、これ以上という以上じゃない、「い」は異なると、異国のいですよね、「じょう」は様、異常。 異常なまでの、言うならば凄まじいまでのおかげという事が言えると思うんです。
ね、異常なまでの信心、異常なまでのおかげと。 だいたい皆さんが願っておられるのは、あの、合楽ではそんな事じゃないかと思うんです。
ね、信心して、まぁ言うならば、あぁいかにも棚からぼた餅のように聞こえますけれども、やはり私自身が異常なまでの、凄まじいおかげの中にここ20年間おかげを頂いてまいりまして、今日のおかげがあるのですから、皆さんもやっぱりそれを、こういつも見られるわけです。 ね、信心によって、あぁいうおかげが受けられる。 まぁだ、これで、今はまぁ、いわば序の口なんですよね、いうなら合楽の場合。 それでもやはり、人から見ると、なるほどなるほど神様じゃなぁと。
今日も夕方、ちょうど善導寺の親先生と、それから久留米の総代さんのハルマさんが、あるお願いの為に、お願いに見えられました。 ちょうど私が2時からの奉仕の時間でございましたから、始めて親先生のお取次をさせて頂きました。 もうそれこそ親先生の事ですからねぇ、もう懇切丁寧に、赤裸々に内容を内割っての内容でした。 だから私、それをジッと聞かせて頂、お取次させて頂いたわけなんですけれども。 ならそれからまた、あの奥に入ってお茶でも差し上げさせて頂いて。
とにかくハルマあの、あちらの総代さんのハルマさんがたまがっておられます。 もうとにかく、まぁだ何年かというのに、ここのお庭があまりに見事になっておるのにビックリした。 本当に異常なまでの、言うならば合楽のおかげの進展とでも申しましょうか、そういうおかげの姿が御広前の隅々まで窺われる。 まぁ、それこそ私は異常なものを感じられたと、私は受け取った、ね。 本当に、信心も出来ませんのに、このようなおかげを受けてと、いわば言うておりますけれども、なら私自身の信心を、良い信心とか立派とか、あぁとは思いませんけれども、熱烈であったということ。 それはいつの場合でも異常であったということ、普通ではなかった事。
ね、私はそれを自分で自負しております。 ね、やはり変わったおかげを頂く為には、変わった信心をしなければならないのは当然のこと。 それ、おかげは、信心は当たり前で、いわゆるおかげだけ異常なまでの、また凄まじい神様のおかげを頂こうなんて、それは虫が良すぎる事がわかります。 ね、しかもそれはどこまでも、これはまぁ私の信心が足りんのだと、そこに焦点を置く意外にはないのでございます。
ね、それにはね、私は何というてもです、ね。 私はその、異常にまでになるまでには、あぁ、やはり信心が好きにならなければいけません。 今度、総会が、アウセガミという峠であるそうでございますけれども、この事なんかも私が先日から、あの、願いの信心を皆さんにお話させて頂いております、その一晩、一睡もせずに合楽の様々な、今までおかげを受けてきた、これからの事などを、様々に天体、いわゆる宇宙の奇妙なまでの働きと、それから小宇宙である、小天地であるところの、合楽教会というものを対象しながら、その御理解頂いた中に、そのアウセガミというのが出てくるんです。
ね、あれはね、えぇ、星野の人とね、千足の、千足とまぁ、浮羽の人でしょう、がね、
あのまぁ、どういう機会か知らんけれども、あのぉ、恋愛関係に落ちたんですね。 えぇ好きになった。 そこでね、毎晩、それこそ夜な夜なです、あの、千足から登ってあの峠、そして星野の方から登ってくる。 ちょうどあそこで、あのそれこそ、唄の文句ではないですけれどもね、惚れて通えばという訳なのであります。 それこそ恐さもなければ、当意さも感じない、ね。 惚れて通えば千でも一里というような思いで、えぇ、あのアウセガミの、であうせを、いわば楽しんだという伝説があるそうです。 そういう伝説の場でね、今度合楽の信奉者の皆が集まって、総会を開こう、今私共が日々頂いておるところの、いわば御理解の中に出てくる、いわば場を持って、私共が今年、総会をさせて頂く事になるわけです、ね。 ですから問題は好きにならなければなりません。
私は昨日もう、もう昨日は私、何か知らんけど体がきつうて、きつうてね、その、お芝居を、あの、札を二枚、用意して下さった方があって、ぜひという事で。 もう私はもう行きたくなかったけれども、ん~、上野先生か何かば連れてから行けと家内に言いよりました。 ところが上野先生が具合が悪うて休んどるち言う、で私もこちらに控えておりましたら急に神様から頂いてですね、今日は神様奉仕と頂きました。 お神様奉仕じゃなくて、神様奉仕と頂いたから、ははぁこれは東京あたりではあの、上さんて言いますもんね奥さんの事を、家内の事を。 だから今日は奥様奉仕日だなと思って、もうそれこそ、いでたちも甲斐甲斐しく出るようにね、あのぉ、薄いシャツと、もうそれこそ今日カバン持ちですから言うならば、奥様はもう芝居「 」ですから、あぁ、一番上等の着物をお召になられましてね、はっは、で参りました。
もう本当にもう、弁当買いからお茶買いからですね、席の準備から、もう全部わたしが
したでした。 もう家内がたまがったじゃろうと思うです、はっは。 ところがね、そういう気にならせて頂いたら非常に楽しかったです。 もうお芝居も私は思いましたなぁ、私が一枚頂いておるのは、もう席、前から五番、五枚目ぐらいなとこの一番良いところだった。 そすと、家内の方は大衆席の方なんです。 そんなら、しかし神様もお許し下さらんのに、そんなハズはなかぞ。 ここに「 」じゃないかち言うてですね、家内と二人席をとったんです、ね。
ところがね、すぐ横に「 」のおばあちゃんが見えました。 私の横に、私共夫婦の横へ、そしてからこうハンドバックをこう開けながら、実は私は切符を今日は二枚持ってるんですよと。 けども一人あの、一人でしか来とらんからここに席がいっちょ余りますばってんち言いなさいますもん。 で、家内も今日言いよりました、おかげ頂いたぁち、そん時思うたち。 私もおかげ頂いたぁと思うだですよ。それけんおばあちゃんに、その切符をもらおうと思うてですね。 そこ座っとって良かけん。
そらぁおばあちゃん、私共実は家内だけが、私はだいたい後ろの方に座らなならんとばってん、じゃぁ座っとるですけん、よろしくお願いしますち言うたら、ハイ良うございますち言いなさったから、本当おかげ頂いたと思ったらもうその瞬間でした、若い娘さんが尋ねて来ましたもん。
その方は福岡の姪御さんか何からしいんです、話しの模様が。 あらぁおばあちゃん、貴方も来とりなっとったですか、私は上の方に席とっとりますち言いよりなさいますもん。
そんならこの方にのいてもろうちから、ここさい来んのち、はははは。 はぁ本当にもう、あれ間一髪ですね。 おかげを頂きそこのうたと思うたけれども、これは虫が良すぎたと思いましてね。 なら家内に、動かしちゃなりませんから、私の方が動きました。 じゃぁお前ここにおれち。 それからその、いっちょ前の前の、言うならちょうど三枚目という所、もうここはまた最高の所がこう、開いておりました、一つ開いておったから、そこへ掛けさせて頂いた。
そうしましたら、そこがだ~れもやっぱ来んとです、そこだけが。 しかも私、隣におった人が一幕みてから、お弁当食べに行きますけんよろしくお願いしますち言うて行きなさった、それっきり来なさらんです。 だからまた、私が家内そこに呼びまして、夫婦並んでお芝居をまぁ見せて頂いたような訳ですけど。 やっぱりお芝居という物はね、こうした表情を見ながらね、もう台詞なんか聞きおとしちゃない、もう本当に一つ一つの表情が見えるところで見なければ芝居を見た値打ちはないです。
もうあの、「とらもどへん?」から見たっちゃ全然、芝居は見たごとなかです。 もう私は、芝居とはそんなもんだと思う。 そんならテレビの方が良いと思う、ね。 参りますと、とうど15分前に行きました。 私はもう芝居小屋に入るその、雰囲気が好きなんです。
まだ、何とも分からん、トトントントントン、というような太古がなってるだけなんですけれども、その太古がですね、もう嫌が上に芝居を見るひとつの雰囲気というものを盛り上げます。 ね、私はそれが楽しい。 だから、あぁちょうど良かった、まだ始まったばっかりじゃったち言うて来る人達の気持が知れんです。 これは芝居が、いわばどうでも良いという人なんです。
どうでも良いというても、だいたい根が好きですから、まずそうした芝居の始まる前の雰囲気から、また合間の雰囲気を楽しませて頂く。 それが私は芝居を見たと思うんです。
信心でもそうです、ね、皆さんがどのぐらい信心が好きかということはね、まずその雰囲気に酔うくらいな物がなからなければいけません。 うしろ~の方からどん御祈念したっちゃ神様の表情が見えない、ね。 ここは私の席と思うならばね、その席を誰にも取られちゃならんから、やはり早う参ってこにゃならん。 月次祭ともなると、楽人さん方は少し早く参りますから、いわゆる琴の調べ、いわゆる琴の調子を合わせて、いわゆる合わせておるあの雰囲気というものは何ともかんとも言えんです。
あの調子が合う前の、いわばお祭り前のいわば雰囲気なのです。 ね、そういう雰囲気から頂かなければ、お月次祭を頂いたごたる気色のせんくらいなね、私は信心、そういう信心を今日は異常なと、今日は言うております。 そげんお前、まぁだお前、9時から、いうなら8時半からのお祭りならお前は、その先生のお説教だけ聞きゃぁ良かろうもん、とお祭りはそげん度々「 」じゃろうもんという目ではなくてですね。 私はとにかく神様事、神様と言うたら、その異常なまでに心が張ってくるようなね、そういう信心を、今日は皆様に異常な信心と、私は思うて頂きたいと思うのです。
ね、 ですから言うならば、信心に呆けしござるというような状態です、ね。 そういう時に、今度のおかげの泉は、その事がいっぱい書いてございましょう。 異常という事はね、えぇ言うならば、馬鹿とあほうにならせて頂く前提なのだと。 呆けしござらんじゃろうかといくらいな信心こそがね、本当に底のぬけたほどしのおかげが、無尽蔵に限りなく、それこそ凄まじいまでのおかげが頂けれる前提はそれなのだと。 それが信心好きかの、いわば、そうしなければならない態度の、姿勢なのだ、という事になる訳、ね。
今朝から、御理会に、学者が年をとっ、あぁ学者が、ね、年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい、という御理解に基づいての御理解でございました。 もう、年をとってから本を読まんで良かろう、研究はいるまいと言うごたるけれども、その研究をして行くことが、本を読めば読むほど新しい学問の分野というものは開けて来る。 それが楽しいのです、学者は。 だから年をとっても、眼鏡をかけてでも、言うならば勉強をする、謙虚に打込むわけなんです。
信心者だって同じこと、ね。 いわゆる私共の信心がです、だんだん、だんだん進展していく。 ね、高度に育って行く、ね。 その、今まで知らなかった、いうなら信心が開拓でけていくとこに、楽しみがある。 今朝から私が申しました、ね。 一生が修行じゃと仰っしゃるが、ね、その一生が修行であるというのが、例えばお金ならお金に一生とうとう、借金の追いかぶったまま、一生を終わった。 金に不自由しながら一生を終わったなんていう修行では、これは信心がひとつも進展してない事を悟らなければいけません。
家庭の円満、いうなら本当に何年前まではあのように、あさのように乱れよっておった自分の家庭がです、このようにも有難いことになってきた。 おかげでお金に不自由をしなくなってきた、おかげで皆が健康のおかげを頂いてというように、そしてまたその上にです、信心を極まりなく、極めていくところの信心が成長していく、信心が分って行くという事が楽しいのだと、それが有難いのだと、という事にならなければですね、一生、お金のお繰り合わせばっか願わにゃん事では、これはつまらん話なんですよ。
ね、一生が修行じゃと仰っしゃるなら、その修行の内容というものが、段々段々、高度なものへ、いわばおかげが伸びていく、ね、それを今日はね、私共がね、今まではね、願わんでも頼まんでも頂けるおかげを、これ和賀心になることを一生懸命願い、今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり、今月今日を只今を私の心の上にお繰り合わせを頂かせて頂くことを願わせて頂けという事に20年間も、言うならばけいこしてきた。
ね、ところがです、世のお役に立たせて頂きたい、立たせて下さいといったような事が少し考えられるようになったら、おかげは、さっきの「 」さんの話しじゃいけども、おかげはもう本当に、もうとにかく、2時間3時間、「 」さんが話されたって切りがないほどし、ほ~ほ~と、いわば言うほどしのおかげを頂いてきてるということ。 おかげを、ね。 ところがね、これをね、これではね、それでも本当の意味において世のお役に立たせて下さい、立ちたいという願いを持ってきたところが、これではお役に立てない事が分かってきた。 それは、ほんの手元足元のところを照らすだけの事であるということが分ってきた。 それでもやはり、止むにやまれぬ願いや、身にあまるような思いをもって、お役に立ちたいという事の願いを立てさせて頂く事になったから、今度は自分には少し手が届かないところにです、願いをおけと。
例えて金額で言うならば、一千円のおかげを頂いていったのがね、これでは言うなら有難い生活をさせてもらうと言うても、ただ食べていくだけ。 これではお役に立てない、そんなら神様、どうでも一万円のおかげを頂かせて下さいと言うて願う。 それは、どこまでも、いわゆる願いの原理に基づいてね、難しくいうと。 言うなら、神様の願いと私共の願いがひとつになっての願いなんです。 それを、いわばお役に立ちたいの一心が、いわば願いにならなければいけないといったようなこと。 そこで、先日からね頂きますように、神様がお喜び頂けれるような。
私共の喜びを持って根とするという事は、私共だけじゃなくて、神様がです、喜んでくださるような心の状態をすいりょして、ね、神様の心をすいりょして、例えば神様の心になって、私共が願って行こうといったような信心は、これは難しい事じゃないなぁ、自分の思いを変えさえすれば出来る事になってきたと、そうでしょうが? ね。
ところが今度はその、 思いを変える事が難しい。 実際に取り組んでおる人はもう一応
それに私は、行きづまっておるんじゃないかと思いますね、合楽の方は。 ここ10日あまり、願い願いという事を、それでいわば、本気でその気にならせて頂いたらですね、もう行きづまっておるんです。 …というのはね、神様が喜んで下さるような事を、思う事を、思いを変える事だから見易いようであるけれども、それが難しい事が分ってくる。
今朝からその、御祈念の後に北野の秋山さんが、「先生もう、願い願いと言うと、願いに疲れた感じです、「 」見たところが。 どげん願うて良かじゃ分からん」ち言うちから今日言う。 それからが申しました、秋山さん、私今晩の月次祭に皆に言おうち思いよる。 私が今、願い願いと言うておる、その願いの事を、いわばあらゆる角度から言わせて頂きよるが、皆さんが今願わんでもええ、本気でその気になる、本気でその、本気でのその気にならせて頂くチャンスを願いなさい。 願えと言うて願えるもんじゃ「だっぱ?」
ないもんねって。
だからね、さぁ、あのぉ。 本当にそれに取り組んでみるところが難しいところだった、そこでもういっちょお参りにならん事は秋山さん、もれは、まいっときばっかりは、あんたんげは世話なかばいち私が申しました、頂かれんっち、それじゃ。 まぁだまだ、まいっときばっかりは、まだアンタなおかげ頂かれんばいなぁと言うて話した事でした。
ね、ところがもう、それ一応にそういうお届けをなさるんです。
願えるようになった願える、もう本当に願いはいっぱいあったから願おうと思ったけれど、どっこい願えない。 第一願いの姿勢が足りないというのが悩みらしいんですよ。
皆さんでんしょうだしょ? そこです、皆が今、合楽で行きづまって、ここ10日間あまりの間に、いわば本気でその気になったところが、どっこい願いの姿勢の難しさに今度はヘトヘトしてるんです、ね。
そこで今日、私が申しますようにね、私共の信心がね、異常なまでの信心にお育てを頂かなければならないという事なのです、ね。 そこでこれは、私が、まちっとシャンとしなきゃいけないという事は、こういう事だと。 今日は、朝の御理解の中にその事の例を持ってしました。 この頃、山口県の下田という教会の先生が時々お参りになります。
先月もお参りになってから、同じ山口の隣組教会に、え~あそこ何って言ったかね?
んっ、田布施という教会、田布施教会という大変、もうそれは凄まじいおかげを受けておられる教会だそうです。 そこにお参りをするとですね、それはもう、たまがれるそうですがねぇその、信者さんの熱心なのに。 それが、教えがあってる訳でもないですけれどもね、毎年、土地を買うて行きなさる。 毎年そこに家を建てて行きなさるそうです。
ね、だもんですから信者さんがですね、そんな事をお取次… どうぞ今度はあそこにお土地をお買いになるなら、私もその中にお役に立たせて下さいち言うて願うち言うんです。
だから、願うもんで、今のところではお供えしようにもお供えのしようがないちいう訳なんです、ね。 今度の例えばなら「ごうしん?」が出来るとしても、それに例えばあぁ、奉賛すること出来ませんから、どうぞ神様おかげを頂かせたい、頂きたいと、いわゆる御用に立ちたいという一心、一念が一心がお取次「 」願う事になる。 だから、迫力が
出てくる。 だから、おかげを受ける訳です。 なるほど自分でお供えしよるとじゃないな、神様がおかげ下さりよるとだな、だからそれが毎年です。
そして、その他の先生方に話されるのにですね、毎年、いわば教会がどうとか変わって行くおかげ、言うならば土地が広くなって行くとか言うより、家が立派になって行くとかというような事をです、企画の方で企画するというような事がです、ね、信者がおかげを頂く事ですって言わっしゃった。 私はそれを聞かせて頂いて、なるほどと、こう思うた。
ね、そういう例えば願いという物の、その中心といったのが出けるとね、そういような事にもなってくるという例を申しました。 ね、ここでも、ん~いよいよ、おぉ~、今度100万から掛りますそうですね、あの、楽器が揃い、あの、バンドが出来ます、少年少女会に。
それでその為には、まぁどうしても少年少女会館が、まぁ、簡単なものでもと言うのでこの頃話しをしておりましたが、ここんところに、何かプレハブか何かで二回建てくらいな、まぁすぐ取りこわ、まだ本格的なものではない、この御広前の美観を吸わさないような程度に、ひとつ造りたいと。
はぁ、あれはやかましいですからねあのぉ、ふぅふぅちドンドンち言わすのとてもやかましいです。 ラッパひとつ吹きよったっちゃもう、ここへ響いてくるくらいですから。
はは、だから向こう向いてから、向こう向いてやるごたる風にしようち言う訳なんです。
ね、時を同じようしてから、楽器が揃いました、しょう、しちりき、ね、笛といったようなもの。 それであそこに、楽人の募集がしてございますが、まぁ6、7人、まぁこの人達、候補に上がってもらっておる方たちがあるです、10名あまり。
それもですね、楽器あの、今先生が久留米におられますが、向こうの方からいつから、いつから来たら良かですか、毎日来ていいですからと言うて電話が掛ってきよる。
私は本当に有難いなぁ、これは何、とにかく合楽流儀だと、ね。 例えば、ね、こっちは雅楽ですね、日本古来の楽。 こっちは西洋から入ってきた学問です。 そういうひとつの音楽というものは、ひとつのリズムなのです、教会のリズムなのです。
そういうリズムに乗っての、いわば私共のこれからの信心の転機に立っている合楽なのですから、そのリズムに乗って行こうと、こう言われます。 ね、現在それのところを、いわば願い願いと言われておる訳でございます。 ね、私は今朝から、昨夜はもう一睡もしませんでした事があったんです。 それがね、その、ほんっとうにお役に立ちたいという思う事があったんです。 ね、ところが今の私、今の合楽の信心程度ではですね、お役に立とうにも立ちようがないのです。
ね、そこでですね、私はもう色々に昨日、まぁ色々頂いたこともあります「 」を、がありました、良う聞いて頂きたいと思うんですけれどもね。 皆さん、本気でお役に立ちたいという一念が燃えだしますとね、これに感動が湧いて参ります。 だからね、お役に立ちたい立ちたいと言いよってもこれに感動が湧いて来ないならね、それはまぁだ口で、おかげば頂かなんから、あのお役に立ちたいお役に立ちたいち言いよるって事になります。
ほんっとうにお役に立ちたいという一念、それでは例えば今私が一千万円どん持っとったっちゃ、お役に立たない。 これが、五割も十倍もの金額にならなければです、お役に立てないのですから、これから5倍もの10倍もの信心をしなければならん、それはちょっと難しい。 だから「 」出来んけれども、少しは私には手が届かんけれどもです、その事を願いとしての願いに、燃えさせて頂いたら夜は眠むれんくらいに興奮しました。
そして、心に感動が湧いてくるんです、ははぁ、お役に立ちたい、どう~でもお役に立ちたいという願いをね、「 」ますとね、神様が喜んでくださる、その喜びがこちらへ返って来るんだなという事を、昨夜から私は感じさせて頂いたんですよ。
そこで、お互いが言っておるお役に立ちたいっていうのはまだまだ本当のところに行ってないというところを、ひとつ悟らせて頂いてですね。 いよいよお役に立ちたいの一念が本当な事になってこなければならんのです。 そこで皆さん、今日私がその、秋山さんに言ったようにね、今晩私が月次祭に、ならその事だけは言おうと思うち、まぁ申しましたから、まぁ申しましたけれど。 実際、話の筋にちょっとなりませんけれど、ね。
こうして皆さんが願いという、この事を今私が一生懸命伝えておる事が、皆さんがその願いの、願う内に例えばなれないと言うならです、はぁまぁ~だ自分のおかげが受けられんのだなと思うて、本気で心から一心に願えれる信心、願う信心が、ね、出来るひとつのいわば雰囲気をね、まず頂かなければならない、ね、心の中に。
本気で願おうという気になる、ひとつお繰り合わせを頂かなければ出来ない、だからこうしてお話を聞いといて下さい、そして何かの機会、調子にです、と本気で願う姿勢が出来た、そこからでも遅くはないと私は思うんです。 ね、今晩頂いたから今晩からという事はいらないちいうこと。 それは秋山さんが本気で取り組んでみられたら難しい事にですねぇ。 いわば、言うならヘキヘキと、むしろ疲れたような顔をして今日言われるから、
はぁ秋山さん、まぁだおかげを頂かれんとばいなぁと、こう言うた。
今までのおかげは別です、今までのような程度のおかげは。 けれども凄まじいまでのおかげに発展するほどしのおかげという事には、まだ頂けんのだなと悟らせてもろうて、私が今言うておる事を、まぁ一ヶ月先でもよい、半年先でも良い、一年先でも良い、本気で、先生があぁ言いよりなさった事はここじゃったと、思わせて頂く為に、まぁきつかろうばってん御理解を頂いときなさいち言うてから話したことです、ね。
今日ちょうど4時の御祈念前に、善導寺の原さんがお参りしてみえました。 え~昼も
一回お参りをさせて頂いた。 このごろどうしたものでしょうか、もうとにかく、まぁギリギリのおかげは受けておるけれども、ピタッと、というて良いぐらいに仕事が止まっとる、洋服屋さんなんです。 もう今まで20年間、信心してきてこういう事なかったっち。
もうピタッと「 」てしもうた。
もうそれこそ、古、古物の仕立ての「 」でも良か、仕事を誰か持ってきてくれんならち思うとって、そういう仕事をすればないち、ピタッと。 止まってしまった、ね。 そこで、言やぁ最近の願いの信心ですから、ねまぁ、日に朝参りだけはなさっておられたのが、言うならば昼も参る、また四時の私の御祈念にも参るという風に、まぁ姿勢を変えてみえた訳なんです、ね。 これは、今日私が言う願いのひとつの姿勢のヒントにもなる事ですから、ひとつ良く聞いて頂きたいと思う。
先生こんな訳ですから、もうとにかくどうも仕様がありませんち。 今日も11時にもここに仕事がないもんですから、またお参りをして参りました。 それこそスゴスゴと帰るばかりである。 中心では、え~おられるお父さんですから、それが苦になる訳です。 ね、
ところが北野の娘のところから、お父さんお芝居の舞台頂いたけんお芝居行きなさいと言う。 まぁお芝居のだんじゃなかばってん、なら行こうかって行った。
ね、だからお芝居どん見よったら心が晴れてからスカッとしていいでしょうが、その心がスカッとした時におかげを頂くもんですよち言ったら、それが先生、もうだいだい「 」 ばってん、見よったっちゃ、いっちょん芝居見よる気色がせん。 ね、だからとうとう途中から止めて帰ってきましたっち。 はぁ、もうよう、もうずいぶん、これはもう、重傷ですね。 おかげも受けられん心の重態です、これは。
そうですよ、好きな芝居どん見よったらね、忘れられるような時にはまだ軽症です。 ね、
けれども、もう好きな芝居を見よったっちゃ、もう心の中にその心配事がして、芝居お見よる気色がせんちいうたのですから、これはもう重態です。 こ~りゃ原さん、いかんばの今のごたる状態じゃっち、まぁ言いながら私もまたひとつ座り直して申しました。
いっちょ本当な意味でね、願う姿勢を変えなさったらどうですかと私は申しました。
ね、あなた方が一番初めに合楽に御神縁を頂いて、ご長男の正一郎さんが、ね、もう死ぬか生きるかじゃなくて、もう死ぬる事になっとった。 それをあなた方夫婦の一心の信心で助かった。 その時に私がどう言うてお取次をしましたかと。 何度かのお参りにです、先生助けて下さいと言うてみえた時に、原さん、あなた方がね、一生神様のご恩どん忘れるだんの事じゃありません、一生お参りは続けますという貴方がたが願いを掛けなさるなら、私は改まって神様にお願いもさせてもらおう、お取次もさせて頂こうと言うて申しましたら、あなた方二人は、私は蚊帳の中、あなた方は蚊帳の外じゃった。 朝方、夜中の事でしたから、ね。
先生その事を神様にお願いして下さい、一生私共は朝参りを続けさせてもらいます、お日参りを止めるような事はいたしませんと言うて、あなた方がそれこそ親の思いを、もう本当に、え~そこにもう、身にも心にも現わしてのお願いであった。 良し、ならその事をお願いしようと言うてお願いをさせて頂いて、あのようにです、もうそれこそビックリするようなおかげになって今日、いわばその方にはもう二人の子供さんがあるほどしのおかげを頂いておられる訳です。
とても結婚とか出来るような方じゃ絶対なかったんです、この方は、ね、それがおかげを受けた。 だから、いっぺん原さん、あの時の事を思いなさいち私が申しました、ね。
したら貴方がたなるほど、20年、何年間でしょうか、本当に朝参りを欠かした事は一回もないほどしに熱心に合楽ではいわば、本当に、まぁ、それこそ、まぁ使い的存在であるほどしに、貴方がた夫婦一家中の信心は皆が認めておる。 あげな信心の真似は出来んって皆が言うぐらいにおかげを受けておる。
親戚の者はみんなおかげを受けておる、ところがね、ここに至ってそういう事が起ってくるという事はどげん考えても不思議な事だ。 仕事がピタッと止まってしもうた、だから、願い願いち、お願いします、お願いしますち言うことがございますちだけの願いではいかんごたるですよ原さん、20何年前のあの時の気持をひとつ掘り起こさせて頂いて、神様どうぞ、これではお役に立とうと思うても立てません。 仕事を与えて下さいお願い申します、その代わりに、どのように忙しい事になりましても、ね、どのように、もう時間で売り上げなければならんというような事がありましても、神様のお参りの方だけは欠かすような事はいたしませんと言う願いをつなさいち言うた。
ね、あれは奥さんは熱心ですから「 」なります。 ところがそのぉ、仕事がその、
はぁ明日まで作れんなぁち言うたらもう、もう神様の方には忙しか。 そすとアンタ椛目、合楽の者がですよ、み~んながそげんなっておかげ頂いてどんどん忙ししゅうしてからもう、どんこんされんごとおかげ頂いて、だ~れん参らんごつなるもんのち私が言うた。
そげなおかげば神様やりなさるハズなかじゃないのち。
ね、おかげを頂いた者はおかげを頂いたほど、それこそ立つ暇もなかぐらいに「 」なるほどにお礼参拝をさせてもらわなければおられんという信心をひとつ思い立ちなさい。
大阪の玉水教会のある呉服屋さんのお話をしました。 朝からもう何べんかましに参りよる、息子さんが、お父さんもう朝晩ぐらいにしなすったらどうですかち言うた。 そらぁばってんお前は、朝お参りして、お願いして帰ってくるともうごげんしておかげを頂きよるもんじゃけん、お礼参りせにゃおられんち。 帰ってくるとまぁたどっからか集金がやってきとる、ならまたお礼参りして、だからお願い参りより「 」をね、お礼参りば~っかりち言わっしゃった。
こういうおかげが頂けれる事が、私は有難いんじゃないかとこう思う。 原さんいっちょそこんところに、貴方がその決心がつくなら、もう今から私は4時の御祈念をしようと思いよるところじゃから、「 」4時の御祈念に合わせてその事を願わせてもろうたらどうですかち私が申しましたら、腹決めますけんその事をお願いして下さいて言われた、ね。
たとえ時間が遅れても向こうの方に迷惑が掛るような事があっても、信心の方の時間だけは決して外しはいたしません、もう20年も信心したけん、そんくらい信心が成長しとっても良うはなかかと言う訳なんです。 ね、まっ、そのお取次をさせて頂いた訳ですけれどもです。 私はね、願いの姿勢というのはね、今までどおりでは、秋山さんじゃないけれども、それこそ、どげんする事が願いの姿勢やら分らないち。 ね、そういうです、私はおかげというものを頂かせて頂かなければならん、ね。
いよいよ、23日は御霊様の御大祭、言うならば皆さんのご先祖様の、ん~慰霊のお祭りが、普通では周期霊祭と申しますかね。 え~、周期霊、え~何ち言うですか。「 かんしんなみさい?」ですかね、を中心にこの、開かれるのがお道の信心での、いわゆる秋の御霊祭りなんです。 え~、尿を肥やさせてもろうて枝葉のしこらん試しはないと言われるくらいですから。 2~3日前、安東て方のところの御主人の御霊さんのお祭りをしました、慰霊祭を。 そしたらね、あの、大きな蘇鉄が大きな鉢に植えちゃる、ところがね、その鉢が鉢割れとっとじゃん。
ね、ですからその鉢を大きいのに変えるか、または大地に下ろすかしなければ「 」
というなお知らせを頂いた。 蘇鉄のお知らせは、まぁ金銭のおかげとこう仰っしゃるけん、もういよいよ例えば金銭のお互いが願って止まないおかげを頂く、御霊様もそのように根の方でおかげを頂いてござるんだから、私共の信心が本当に地に付かなければいけない。 いわゆるおかげの受け物を変えて行かなければならない。
もう合楽全体の方達の場合なんかは、そういう言うなら、鉢が割れておるような状態の時がなかろうか、だから鉢を変えるなり、またはその、それを大地に下ろすなりしなければならない時なんだ、そういう手数が必要な時なんだ、ね。 それで皆さんも信心が大抵は好きなんだけれどもです、もっともっとね、私は信心の雰囲気を大事にされるくらいな信心にならなければいけないという事、ね。
お月次際に、もう言うならば、もうお祭り半ばにどん参ってくるぐらいな雰囲気で、例えば言うならばです、切符ばもろうとるけんで、しょうことなしに芝居見げ行きよると同じ事ですよ。 ね、ですから芝居を見るなら、まず私はです、始まる前のあの幕が上がる前のです、あの芝居小屋の雰囲気が私は楽しい。 これは芝居好きだからなんだ、だから信心が好きになる何とか手立てをね、してからでもおかげを頂かせてもらう。 今度の総会はそういう只今申します様に、大変意義の深い事。 あうせ神ので、総会が開かれる、ね。
どうぞ日曜にあたるそうですから、まぁ、一家を、まぁ上げてでも総会に参加させてもろうてです、それから一月後に奉仕される秋の、いよいよ御大祭に向かわせて頂こうという姿勢を一つ変えさせて頂かなければならん。 今日の朝の御理解をですね、またいつか機会があったら頂いて下さい。 今日私がまだ、言葉不足のところが沢山あるようです。
大変大事な事が話してございますから、どうぞそれからあの、ご本部参拝の事をね、ん~、もう先生がねぇ、自分でも参る事知っちゃるけんでちいうごたる事じゃなくてですね、本当にやはり実意にね、私も参らせて下さいと言うてお取次を願うてね、それはもう金の事だって時間の事だってね、暇の事だってお繰り合わせを願うくらいな、一つ実意さがお互いいるのじゃないでしょうかね。 そしてですね、ピシッと「 なら 」が、早うお世話をなさっとる方達が安心が出来るくらいにです、一つお繰り合わせ頂きたいもんだ、そういう一つの、まぁ信心の節度というかね、ピシッとした信心も、もうボチボチ身につけて行かなければならんと思うんですよね。
どうぞ、二十~、20日の総会の事、それから23日の御霊様のお祭りの事、ね、を一つ私共が今、まぁ言うなら足並みを揃えて進もうと言うておる願いの信心に基づいて、ひとつおかげを頂きたいもんだと思うのでございます、どうぞ…。
末永 信太郎